天台宗とは、教えや歴史、葬儀や仏事のマナーを分かりやすく解説

更新:2023.06.29

天台宗は、平安時代に最澄が開いた日本仏教の一宗派です。

都が奈良から京都に移ったのにあわせ、桓武天皇からその才覚を見出された最澄は、仏教の新しい潮流を切り開きました。

以降、天台宗は後世の僧侶たちに絶大な影響を与え続け、いまもたくさんの人々に信仰され続けています。

天台宗がどのような宗派なのか、その概要、教え、さらには葬儀や仏事における作法やその意味について解説いたします。

天台宗とは

比叡山延暦寺

まずは、天台宗がどのような宗派なのかをご紹介していきます。

天台宗の開祖、本山

もともと中国で始まった大乗仏教の中の一宗派である天台宗、開祖は隋の時代の僧侶・智顗(ちぎ)です。

そして、日本にいながら天台宗の教えに感銘を受けて、遣唐使として中国に渡ったのが、最澄です。

本場の天台教学を学んだ最澄は、日本に帰国すると、その教えを広めるべく天台宗を開きました。

天台宗の本山は、滋賀県大津市にある比叡山延暦寺で、平成30年度の宗教年鑑によると、天台宗系寺院の数は4,505、信者数は約297万人です。

開祖は中国の僧・智顗

「天台宗の開祖は最澄」と思われがちですが、実は中国から始まった宗派です。

開祖である智顗は、天台教学をまとめただけでなく、禅の大家とも知られ、隋王朝の皇帝である煬帝の帰依を受けたほどの人物です。

上海北部にある天台山にこもって修行をしていたことから、宗派の名前も「天台宗」となり、皇帝から「天台大師」の称号を授かっています。

60年の生涯の間に、35の寺院を建て、4,000人を得度させたといわれる天台大師智顗。

日本の仏教において特に意義のある功績は、「五時八教の教相判釈」です。

五時八教の教相判釈とは、当時の中国には、インドから膨大な仏典が流入しており、これらを整理して体系的にまとめることです。

智顗は、数ある仏典の中でも、お釈迦様が最晩年に説いたとされるのが『法華経』であると示しました。

これにより、天台宗では『法華経』を重要な経典と位置づけます。

最澄は智顗の教えをそのまま受け継ぎ、日本国内に天台教学を広めます。

その後比叡山で修業を積んだ僧侶たちが新たな宗派を打ち立てていったことを考えると、日本においても智顗の功績が計り知れないことが分かるかと思います。

日本で天台宗を広めた最澄

日本に天台教学を広め、天台宗を開いた最澄は、のちに「伝教大師」の称号を授かるほどの高僧です。

12歳で出家、15歳で最澄と名乗り、そして20歳の時に、東大寺戒壇院で、出家者が守るべき厳しい戒律「具足戒二五〇条」を受けて僧侶となるなど、まさに僧侶としてのエリートコースを歩みます。

しかし最澄は、仏教研究の中心地であった奈良(当時の平城京)の仏教寺院の世俗化に嫌気がさし、単身、京都北西にある比叡山に登ります。

そして12年もの長い修行の中で天台教学に傾倒していくのです。

都が奈良から京都に移るにつれて、最澄の噂は京都中でも聞かれるようになり、まもなく、新しい権力体制に見合う新たな仏教を望んだ桓武天皇に見出され、帰依を受けます。

804年、最澄は第18回遣唐使として唐に渡りました。

膨大な数のお経を書き写し、天台教学以外にも、禅や密教といったさまざまな仏教の修法も学び、帰国後、天台宗を開宗します。

ちなみに、最澄が唐に渡った同じ遣唐使船に、のちのライバルとなる空海(真言宗の開祖)も乗船していたことは有名な話です。

帰国後は法華経を中心とした国づくりのために尽力します。

特に最澄がこだわったのは、大乗戒壇院の設立でした。

これは、僧侶の資格を与えるための権威ある施設で、当時は仏教の中心地である奈良をはじめ、国内に数か所しかありませんでした。

最澄は、世俗化した旧勢力がいまだに強い勢力を誇る奈良だけではなく、自らが修行に励んだ比叡山にも、僧侶を育成輩出するための大乗戒壇院を作ることを目指したのです。

従来の戒壇院が授ける戒律(僧侶が守るべき決まりごと)は大変厳しいものであったのに対し、最澄の目指した戒律は、比較的ゆるやかなものでした。

最澄が大切にした『法華経』の中に示されている、誰もが仏になれるという平等思想を反映したものにしたかったからです。

こうした最澄の新たな挑戦は、当時の仏教界に大論争を巻き起こし、既得権益となっていた奈良仏教とは対立を深めました。

特に、法相宗の僧侶・徳一との論争はあまりにも有名で、最澄の悲願だった比叡山の大乗戒壇院の建立の夢を生前中に叶えることができず、57歳で入滅します。

なお、比叡山の大乗戒壇院は、最澄の死後7日後に建立が認められます。

以降、この比叡山から、たくさんの高僧が現れ、日本仏教を大きく発展させていきます。

比叡山は日本仏教の「母山」

最澄死後、僧侶を目指す多くの人が比叡山に上り、修行を積みました。

さきほども触れた通り、比叡山では、法華経、密教、禅、授戒、念仏など、あらゆる修行を実践していたため、「仏教の総合大学」的な位置づけだと言われます。

こうして、比叡山はたくさんの高僧を輩出することとなります。

特に有名なのが、鎌倉新仏教の担い手たちです。

彼らは、自らが信奉する教えをさらに推し進め、自らの宗派を立ち上げていきました。

念仏を大切にし、浄土思想を広めたのが、法然(浄土宗)、良忍(融通念仏宗)、親鸞(浄土真宗)、一遍(時宗)らです。

禅の教えに純化して宗派を立ち上げたのが栄西(臨済宗)と道元(曹洞宗)です。

最澄が大切にしていた法華経の教えを、さらに独自に推し進めたのが、日蓮(日蓮宗)です。

また、共通しているのは、彼らは高い志を持って比叡山に上ったものの、世俗化する比叡山に見切りをつけて下山し、自らの活動を展開していた点です。

それは同時に、比叡山が中世の日本社会において、公家や武家に並ぶほどに強大な権勢を誇っていたこととなります。

最終的に織田信長の焼き討ちにあうまでになるのですが、それほどに、出家者(僧侶を目指すもの)や在家者(一般民衆)それぞれに大きな影響力を持ち、信仰を集めていたのです。

天台宗の教え

この章では、天台宗がどのような教えを説いているのかを解説いたします。

法華経の平等思想を重視

最澄が感銘を受けた、智顗の天台教学は、数ある仏典の中で『法華経』こそが最高の経典だとしています。

お釈迦様は、カースト制度による身分の差もなく、男性であれ女性であれ、だれもが仏になれると説きました。

しかし、釈迦の死後、弟子たちによって仏教は教団化し、やがて世俗化していきます。

また、釈迦の教えの解釈の違いから教団そのものも分派します。

大きな潮流として、主に東南アジアに広がる「上座部仏教」、チベット、中国、そして日本に広がる「大乗仏教」に分かれます。

こうした流れの中で、出家者は在家者を、そして大乗仏教は上座部仏教を差別するような構図が生まれてしまうのです。

『法華経』は、釈迦の死後500年後くらいにまとめられた経典ですが、出家者も在家者も、大乗も上座部も関係なく、人はだれでも仏になれるということが説かれています。

そこには、仏教内における差別構造を乗り越えていこうという思想的役割があったと言われています。

最澄が、人生をかけて大乗戒壇院の設立にこだわったのは、まさにこのためだったと言われています。

誰もが仏になれるという『法華経』の平等思想に貫かれ、また、新しい時代のこの仏教者は世俗社会の中に入っていき、社会の役に立たなければならないという想いがあったようです。

密教、禅、戒律、念仏のすべてをする

いまでこそ、密教は真言宗、禅は禅宗、念仏は浄土系、といったように、特定の修行法と宗派を紐づけて捉えます。

それは、後世の僧侶たちが自分たちの信奉する教えに特化して、自らが信じるところを布教していったからです。

親鸞も、栄西も、日蓮も、もとは天台宗僧侶として、法華経も、禅も、密教も、念仏も、あらゆる修行を実践しました。

その上で、親鸞は念仏を大事だとし、栄西は禅の教えを広め、日蓮は法華経を純化させた、ということです。

最澄の生きたころというのは、こういった区分や特化がそもそもなく、「仏教者は密教も、禅も、念仏も、なんでもやるものだ」という風潮だったと言われています。

天台宗はその姿勢を受け継ぎ、いまでもあらゆる修行を積むことのできる、まさに「仏教の総合大学」としての性格を強く持っています。

特定の本尊がない

以上のような理由から、天台宗には特定の本尊がありません。

真言宗だと大日如来、浄土系は阿弥陀如来、禅宗は釈迦如来、そして日蓮宗は法華曼荼羅というように、お寺の本堂やお仏壇の中央に祀るべき仏さまが決まっているものです。

しかし、天台宗ではあらゆる修行を積むために、そこで礼拝されるべき仏さまもさまざまです。

お寺によって、薬師如来、阿弥陀如来、釈迦如来、観世音菩薩など、祀られる仏さまが異なります。

仏壇の場合は、阿弥陀如来か釈迦如来をお祀りします。菩提寺の本尊に合わせることが多く、住職の意向が反映されます。

天台宗の葬儀・仏事

この章では、天台宗葬儀や仏事について詳しく解説します。

天台宗の葬儀

天台宗の葬儀は、『法華経』または『阿弥陀経』を中心に儀式が進みます。

『法華経』には、生前の行いを懺悔することで、その罪が滅され、計り知れない功徳をいただけるとされています。

また『阿弥陀経』には、阿弥陀如来を信じ、南無阿弥陀仏の念仏を称える者は誰もが極楽往生できると説いています。

そのことから葬儀の時にはよく読まれるお経です。

そして、故人に対し、仏弟子としての戒を授け(授戒)、あちらの世界に送り出します(引導)。

天台宗のお焼香の回数は1〜3回と、特定の回数を定めていません。

迷ったときには、心を込めて3回し、しっかりと故人の供養を念じましょう。

天台宗の仏壇

前の章でも述べた通り、天台宗には特定の本尊がありません。

釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来、観世音菩薩などさまざまです。

よくお祀りされる仏さまは、仏教の開祖であり、『法華経』で永遠の覚者であると説かれている釈迦如来。

または、故人を極楽浄土に往生して下さる阿弥陀如来のいずれかです。

また、脇仏として、向かって右に中国天台宗の開祖である智顗(天台大師)、左に日本天台宗の開祖である最澄(伝教大師)を祀ります。

最上段に三尊(ご本尊、天台大師智顗、伝教大師最澄)をお祀りし、2段目にご先祖様の位牌を、そして3段目に五具足(お花、お線香、ローソク)を、最下段にお供え物を並べるのが基本です。

天台宗では、木目を活かした「唐木仏壇」が多いのですが、最近では、昨今の住環境にマッチした家具調仏壇や、コンパクトな仏壇もよく選ばれています。

天台宗の戒名

天台宗の戒名の特徴は、この世のすべての根源だとされる大日如来の梵字「ア」を頭文字につける点です。

寺院によっては阿弥陀如来の「キリーク」の場合もあるので、事前の確認が大切です。

戒名の構成は、上から順番に院号・道号・法号・位号が基本です。

(男性)(ア)◯◯院◆◆△△●●居士

(女性)(ア)◯◯院◆◆△△●●大姉

天台宗の数珠

天台宗には、宗派の定める数珠の形があります。108個の主玉を連ね、その形は丸ではなく平玉であることが特徴です。

ただし、本式の数珠はお坊さんや信仰心の篤い檀家こそ使用するものの、必ずしもこれを用意しなければならないわけではありません。

私たち一般在家の人が葬儀や法事に参列する際は、どの宗派でも使用できる略式数珠で構いません。

天台宗の家族葬は、広島自宅葬儀社にご相談下さい。

ここまで、天台宗の教え、葬儀や仏事について解説して参りました。

日本仏教の礎も築き、いまも比叡山ではたくさんの僧侶が修行に励んでいます。

天台宗の葬儀で分からないことや不安がある方は、まずは広島自宅葬儀社にご相談下さい。どんなささいなことでも構いません。

お客様の声に耳を傾け、親切丁寧に、アドバイスさせていただきます。

この記事を書いた人

廣田 篤  広島自宅葬儀社 代表

葬儀業界20年、厚生労働省技能審査1級葬祭ディレクター。終活カウンセラー。大手冠婚葬祭互助会で通算1,500件の葬儀を担当。家族の在宅介護がきっかけで広島自宅葬儀社を設立。身内の死や介護の経験、数々の葬儀を通じての縁から「死」について考え、文章にすることをライフワークとしている。

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